唐突ばがら「国の平和」という大義について考えてみる。
正直に言うと、今の自分の気持ちは時代と共にどんどん変化してきている。
「戦争は駄目」
そんな言葉は誰でも簡単に理解できる。
「人を傷つけてはいけない。」
そんな事は子供でも分かる。
小学生の頃に社会科の授業で習った「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」から構成される憲法9条は子供心に「当然」としか響かなかった。
素晴らしいとも感じなかった。
普通だった。
戦争を知らない世代だからこそ、歴史から何かを学ぶとすれば、やっぱり人の幸せを考えると最後には「生き死に」の問題に直面する。
「生き死に」を一番感じる瞬間のひとつに「戦争」が挙がるのは当然。

世界的な不況の中で、「平和」という均衡はいつ崩れてもおかしくない状態だと言える。
1991年・・・湾岸戦争が始まった。
当時、小学生だった自分自身にとって「戦争」はまさしくテレビの中だけの出来事でしかなかった。
日本は平和憲法により自衛隊の海外派遣を許さないかわりに1兆2千億という多額の資金援助でもってこの戦争に協力をした。
金銭での援助も戦争に参加した立派な証拠になると言えるかもしれないが、参戦国からは「金だけしか出さない」と非難された。
血を流す事でしか犠牲と認識されない戦争において、日本は世界から「腰抜け」と標的にされた。
その後、PKO協力法が作られ、自衛隊の海外派遣が認められ(国際貢献)という名で外国に行く事が許された。
子供の頃に素直に感じていた「戦争は駄目」という当たり前の感覚が次第に「世界が変わりゆく中で憲法第9条に縛られて世界から遅れをとっていないのか?平和ボケをしていていいのか?」と思う様にもなっていた。
日本がもはや「戦争」から他人事ではないと感じずにはいられなかったのは、北朝鮮のテポドンが日本上空を飛び越えていくというニュースを見た時。
アメリカが日本を守ってくれるとばかり思っていたが、アメリカのゲーツ国防長官は「北朝鮮のミサイルが米国を狙ったものでない限り、撃墜しない」と言明した瞬間から、日本はアメリカという強力な守備盾が何も意味しない事を知る。
「核ミサイルが日本上空を通過する」
文字にすると何とも迫力のない言葉だが、日本上空で爆発した瞬間に一瞬で日本は終わってしまう事実からは目を背けられない。
日本は軍事力と外交力を備えていない。
資源に乏しく行き詰まった日本はそろそろ世界に誇れる国(背後にアメリカという守備がいた事で成り立っていた事実)というメッキが剥がれてきたのかもしれない。
しかし北朝鮮の様な問題から「日本国の安全」を最優先に考えると、自然と最後は「核」の保有問題に直面する。
テレビやメディアからは評論家が「核の保有は北朝鮮への抑止力にもなるし、外交にも使える」と声高に叫ぶ。
原爆を落とされ、日本人の誰もが「核」の恐ろしさを身を以て経験した同じ人たちの50数年後の言葉だった。

ジョン・レノンやオノ・ヨーコが「WAR IS OVER」と唄おうが人というのはいつの時代も闘いと背中合わせに生きている。
いつも思う事が「人は距離感の生き物」だという事。
阪神大震災を経験した日、世界中の人が自分の事を心配してくれていると思っていた。
先日のタヒチで地震があり多くの人が死んでいった・・・でも、自分の生活も感情も何も変わらなかった。
新聞やテレビが伝えるタヒチの情報をまるで映画の一コマの様に見ているだけだった。
世界の裏側で子供が何人死のうが、飼い猫が死んだ方が悲しい。
話が少し反れてしまったが、こういった「核」保有問題や戦争の問題を考える人たちは誰もが「自国の幸せ」を願っている。
日本を良くしたい!その気持ちの上に成り立っているからこそ、「戦争」や「核」という問題に答えは見つからない。
そして今の自分自身にも何か答えがあるのか?と言われると口を閉ざしてしまう。
2007年、バンドのライブで台湾へ行く機会があった。
台湾では今でも徴兵制があり20歳を越えた若者は数年間、兵隊へ入隊する事になっている。
そんな台湾人と軍隊の話をしてみる。
「軍隊に入って何をするの?」
「ちょっとした訓練みたいな事と、後は遊んでる」
「えっ?遊べるの?」
「うん!韓国の様に厳しくないから!それに俺の友人は徴兵制で兵隊に入るのが嫌で、政令が来た時に(頭がおかしい奴)を演じて、入隊を免除されてたからね。」
軍隊と言っても国の間でこれだけ大きな意識の差がある事を知った。
もし、今の日本が徴兵制などを取り入れても、台湾の二の舞になるのは目に見えているかもしれないと感じた。
「自国の安全」の為に出来る事はした方がいいし、そろそろアメリカは自分たちの事で手が回らなくなってきている。自分たちの事は自分たちで守る必要がある。
答えの見つからない今だからこそ、自分自身が小学生の頃に感じた素直な「戦争は駄目なんて当たり前」という感情に戻っても良いのかもしれないと思っている。
「平和」と「国益」の両方を考える事は大切だが、最終的には「国益」よりも小さな小さな「平和」の下で暮らしていたいと感じている。

